辺野古への基地移転問題に思うこと

一昨日、沖縄名護市長に、名護市への基地移転反対を訴える稲嶺進氏が当選した。投票率は76.96%、負けた現職の島袋吉和氏は基地移転容認派だった。

勝った稲嶺氏は民主党、社民党などの支援を受けており、負けた島袋氏は自民党と公明党の支援を受けていた。昨年夏の衆議院選でも、沖縄の合計4区で選ばれた議員は、民主党2人,社民党1人,国民新党1人の4名で、自民党は全滅だった。

もはや地元の民意は余りに明確だ。


それでも名護市で基地移設反対派の市長が選ばれるのは、基地が争点化した過去4回の選挙で今回が初めてのことだ。今まではずっと「基地容認派」の市長が選ばれていた。だからこそ辺野古沖への移設が決定されたのだ。

なぜ、今までは容認派の市長が選ばれていたのか?


ひとつの理由は、基地の見返りとして約束されてきた膨大な「地元振興対策費」だ。地元の人がそれに踊らされたわけではない。自民党時代の地方政治はどこも同じだ。

多額の国費が大規模建造物の建設費として投下され、ゼネコンや地元の工事業者、それにまつわる“様々な”人達を潤す。彼らはその膨大な利権維持のために強固な“組織選挙”を展開する。この構図が、これまで基地容認派候補の当選を支えてきた。


“地元振興対策費”はしかし、必ずしも地元の人達を潤すわけではない。大規模な工事の間は、建設作業員の飲み食いだけでも地元の商店街や飲み屋は潤うかもしれない。しかし、そもそも市場性のない多くの建造物は、工事が終われば地元になんら経済的な利益を残さない。

後に残されるものは“基地”という地雷のようなお荷物だ。日本の警察や司法が手を出せない外国の兵隊による性犯罪、治安の悪化、騒音、事故の危険、発展性のない基地依存の地元経済。

沖縄はこういったものを、半ば宿命として受け入れながら戦後の60年余をすごしてきた。


1990年までの東西冷戦時代。日米安保は自由民主党が選んだ戦後体制の要の一つだった。日本政府は「日米安保」の錦の御旗の元に国民を欺くこともなんら厭わず(いわゆる“密約問題”)、「基地を受け入れずして、沖縄に未来はない」と無情な圧力をかけ続けた。

地元の人達はそれらの圧倒的な力に諦念した。圧倒的な権力である中央政府と、巨額の利権に群がる既得権益業者の前に、住民達にできることは多くなかった。


言うまでもないことだが、沖縄は日本で唯一地上戦を経験した地域だ。いつも暮らしている自分の村、その道角や丘の影から、武装した米兵が銃口を向けて自分に向かってくる図を私たちは想像できるだろうか。

地上戦というのは、B29が爆弾を降り注ぐ空襲とはまた全く風景の違った戦争だったろう。多くの証人達が語るように、しかも住民に死を選ばせたのは、必ずしも敵兵ばかりではなかった。本土の子供達は田舎に疎開していた。しかし沖縄の子供達にはその時、逃げる場所もなかったのだ。


その沖縄を日本は敗戦で手放した。日本で唯一地上戦を経験した沖縄は、米軍に占領されたまま、朝鮮やベトナムの地上戦に投入される米兵達の、最前線基地となった。

沖縄が本土復帰を果たしたのは1972年。実に敗戦から27年後。本土は既に高度成長を謳歌していた時代だ。車の通行方向が変更され、沖縄に行くのにパスポートが不要になった。“沖縄返還”は、沖縄以外の人にとって、“戦後という時代の完了”を意味した。しかし沖縄はそれからもずっと、「基地の島」として放置された。

日本政府も本土の私たちも、米軍基地の7割を抱える沖縄を「問題」として可視化できなかった。高度成長においていかれた沖縄の失業率は、常に全国平均の倍近い。つい2年前まで好景気に沸く名古屋地区の自動車工場に、片道交通費丸抱えでつれてこられた期間労働者の中には、仕事のない沖縄で採用された若者達が多く含まれていた。

長年にわたり巨額の地元振興費が注ぎ込まれていても、沖縄の若者達には、好景気に沸いていた2年前でさえ、島に残るための仕事はなかった。


基地がある限り、沖縄の戦後は終わらない。けれども基地以外の仕事は何もない。食べていかねばならない地元の人達、日米安保を絶対支持する自民党、巨額の公共資金を逃したくない既得権益のパイプ、無関心な本土の人達。それらが過去3代の基地容認派の市長を選出し、普天間基地の辺野古沖移転を決定させた。


2009年8月末、民主党・社民党・国民新党の連立政権が誕生したことで、沖縄の人達は“希望”を取り戻した。彼らの民意は常に「これ以上、新たに、沖縄に基地を作るなんてありえない」というものであったろう。

今になってまだなお「補助金をやるから新しい基地を造れ。お前にもそれが得策だ」と言い切る中央の横暴を、政権交代がなければ彼らには受け入れるしか道がなかった。


アメリカはいらついているかもしれない。でも別にこんなことで、日米関係が壊れたりはしない。アメリカは他の多くの国と、もっともっと大変なこじれた関係を抱えている。アメリカが逃したくないのは、あまりに潤沢に日本政府が払ってくれる、相当額の軍事支援費にすぎない。

今回の名護市長選が終わるまで、この件になんの結論も出さずにひっぱったのは、鳩山首相の作戦だろう。彼は危ない橋を渡ろうとしている。この問題は政権を揺るがす可能性がある。辺野古の住民は喜んでも、問題が先送りされる普天間の住民は複雑だ。

住宅地の真上を軍用機が飛び、時には学校に墜落し! なんども繰り返される地元少女らへの性犯罪に絶望しながら、普天間がこれまでに払ってきた犠牲も、それこそ目を覆いたくなるような悲惨なものだ。移転先が“ゼロベースでの再検討”に戻れば、ふたたび普天間は見通しのない未来をぶら下げられたまま“軍用機の空の下の街”であり続ける。


それでも、この時期に来て、

「まだ、今から沖縄に新しい基地を造るなんて正気なのか?」とか、

「この“環境”の時代に、世界に誇れる辺野古の海に本気で巨大なコンクリートと鉄骨をぶち込むのか?」

という、もっともベーシックな幾つかの質問に、私たちの関心を向かわせてくれるだけでも、今回の基地移転問題の議論には意味がある。


55年から続いてきた自民党政治が、ここでも終わろとしている。冷戦構造の中で日米安保を国家存立の基本とし、国民の犠牲と不満はゼネコンに巨額の税金を投下することで(選挙をゼネコンに助けてもらうことにより)押さえ込む。

こういう仕組みが昔の日本にはあったのだ、と、私たちは次の世代に過去形で語ることができるだろうか。


潜りにいくだけじゃなく。ちょっとは関心をもってみようと。そう思えたニュースだった。


そんじゃーね。