先日、元財務官の榊原英資氏が「今のデフレは、マネタリーな現象ではなく構造的なものだ。日本は中国と近いためにデフレが深刻なのだ」とおっしゃっていた。
この意見にはちきりんもほぼ同意。よく指摘されていることだが、グローバリゼーションの進行により日本の財・サービスの価格は中国の財・サービスの価格と均衡するところまで下がり続ける運命にある。
そしてそのサービスの価格には“労働単価”も含まれており、私たちの給与は今後、日中で同じレベルに収束するまで、中国では上がりつづけ、日本では下がり続けるだろう。
このような構造的デフレに対して“マネタリーな対策”、すなわち日銀が市中への資金供給を増やすなどという対策は(資金ショート問題にはそれなりの効果があるだろうが)景気に対してはたいした効果がない。
現在でも金融機関は“日銀からはじゃぶじゃぶの資金”を供給され、一方で貸し出したい中小企業はないし、借りてくれる大企業もない中、“余った金で国債を買う以外ない”状態だ。まあ、おかげで少々国債発行額が増えてもその消化には全く問題がなさそうだが。
この“グローバリゼーションによる構造的デフレ”が、菅副総理の言われる“第二の道”が、日本において政治的に失敗した理由だろう。第二の道とは、規制緩和や自由化により企業の国際競争力を上げ、日本が生む富の合計量を上昇させよう(=GDPをあげる=経済成長させる)という方策だ。
しかしながらこの方法をとれば、まだ当面の間、企業は国際競争力をつけるためにそのコスト(人件費を含む)を中国企業のそれと均衡するところまで引き下げるはずで、雇われている人達の給与はまだまだ下がるだろう。
しかもそれは工場労働者の話だけではない。彼らにとっては工場で日本諷の餃子を焼く作業も、ミシンでジーンズを縫う作業も、日本式の経理書類を会計ソフトに入力する作業も、システムのプログラムを書く仕事も、たいして難易度は変わらない。その代替範囲は大半の日本人のホワイトカラーの仕事に及ぶのだ。
人件費が中国を含む第三世界と均衡した後に、次は“世界で勝てる企業となった日本企業が高い付加価値を生む出すようになって”初めて雇用を増やしたり、給与水準をあげる段階に入るのかもしれない。
しかしながらその日がくるのは、今すぐに自由化や規制緩和を始めたとしても早くて3―5年後である。すなわち、自由化、規制緩和の道を選べば、当面は給与は下がり続け雇用は減り続ける。
さらに、5年後に「より強い供給サイド」を持つ日本が増やす雇用とは、必ずしも“弱者を含む国民全員”ではない。その“高付加価値の供給“に参加できるのは、労働者のうちの一部にすぎないだろう。しかも“世界で勝てる企業”になった日本企業が雇いたいと考えるのは「優秀な日本人」でさえなく「優秀な人」である。
では、雇用されない人はどうなるのか?
「底辺の仕事でもらえる報酬で足りない部分は、セーフティネットで救えばよい」というのが、規制緩和論者(第二の道の主張者)の意見だろう。つまり、稼ぐ力のある人が稼ぎ、稼ぐ能力のない人は福祉で生きていく社会、を彼等は想定している。(“彼等”とか書いてますが、ちきりんも“第二の道”しか解はないと思ってます。)
が、しかし菅副総理は「雇用」が大事だ、という。底辺の人にも“日本で食べていける額を稼げる仕事”がある社会を目指している、らしい。ここが第二の道論者との大きな違いだ。
第二の道の人は、そういう人は「福祉」で(もしくは“底辺にまで流れてくる低付加価値のお仕事”をしながら福祉でサイドを支えてもらって)生きればいいと思っているが、副総理は(あんなに福祉重視の政権のナンバー2でありながら)福祉ではなく「雇用」で生きていけるようにすべきだという。ここは大きな違いなのだ。
労働市場がグローバルに統合された後、稼ぐ能力のある人が稼ぎ、稼ぐ能力のない人は勝ち組が納めた税金によるセーフティネットで生きていく世界
と、
「日本国民である限り(世界で競争力のある能力をもっているかどうかに関わらず)全員が日本の物価でたべていけるだけの給与を確保できる雇用を得られるようにしたい。そんな第三の道を探したい」という意見
は、
根本的に違う。
すなわち、菅副総理は「グローバリゼーションの中で、日本は“その流れに巻き込まれない”違う生き方を模索する」と宣言されているのであり、世界のほぼ全部の国と違う方向に解を見いだそうとするその大胆さに、ちきりんはある種の感銘を受ける。
そういう第三の道とは、150年以上前に既に名前がついていた例の道と酷似しているし(それがなんと呼ばれてきた道か、賢明な人なら皆もうわかっているだろう)、今や“国の意思としてグローバリゼーションに背を向けようとしている国”は、ちきりんの知る限りキューバと北朝鮮、それにアフリカのいくつかの国しか存在しない。
もしくは日本の歴史においても同じようなことをしようとした時代があった。たしか・・その時代は江戸時代と呼ばれていた。
とか、おもいっきりチャカしながらも、それでも、ちきりんは大臣という国のリーダーが、そういうことを言う意義は感じるですよ。
世の中は猫も杓子もグローバリゼーションだ。ちきりんのような不勉強な人には、そういう“世界が言っていること”しか思いつかない。凡人ってのはそういうもんだ。周りが言っていることが、大きな声で言われていることが、まるで正しいことのように聞こえるのだ。
どんなアホみたいに聞こえることでも、「いや、でも違う可能性だってあるかもしれないじゃないか」と言い続ける人からしか、完全に新しい世界観は生まれない。たしか昔は「地球の方が回ってる」と言ってた人だってバカにされてたと聞くし。
リーダーの役割、という意味ではね。
いいんじゃないかと思う。
第三の道とか言ってれば。
そんじゃーね。
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