みんなが叩く人は自分も叩いていい、と考える人は怖いです

リアルな社会でもネット上でも、
子供の世界でも大人の世界でも、
定期的に「めちゃくちゃ叩かれる人」というのが出現します。
てか「選ばれます」というべきかな。


叩く人は、次のふたつに分かれます。

1)誰もその人を批判していなくても、ひとりでも批判をする人


2)みんなが批判しているので、自分も批判(活動に参加)する人


誤解されて批判されてる場合もあれば、ほんとに何か悪い点があって批判されてることもあるでしょうが、「もっとも悪いのは誰か?」ではなく、

「もっとも怖いのは誰か?」
「もっとも関わりあいになりたくないのは誰か?」と言えば、

あたしの答えは明確に「みんなが批判しているので、自分も批判する人」です。


★★★


理研の小保方晴子氏の STAP細胞に関する論文に問題があり、いろんな人から批判を浴びています。

この場合、「もっとも悪いのは誰か?」といえば、彼女なのかもしれない。

でも私が「こういう人とは絶対に関わりあいになりたくない」と思うのは彼女ではなく、にわかの正義感を振りかざし、

「とりあえず今、彼女を叩いておけば、自分は正論を言っていると評価してもらえる。えっへん!」と思っている人たちです。


小保方さんの釈明会見はテレビとネットでその大半を見ましたが、私がこの会見で一番呆れたのは、彼女ではなく、むしろ質問をしている記者たちでした。

その質問はどれもこれもあまりにも脈絡がなく、ポイントがずれたものだったからです。


たとえば、「実験ノートは 2冊ではないのか?」という質問にたいし、彼女は「もっとあります」と答えます。が、この後、この質問者は「では何冊あるのか?」とは問わないのです。

質問が一人ひとつに制限されているのなら、最初から「ノートが 2冊しかないと言われていますが、実際には何冊ですか?」と問えばいいのに、そういう知恵さえありません。


その後 1時間近くも記者会見が続いたあと、誰かが思い出したように「じゃあノートは何冊あるのか?」と聞くのですが、ここでも「少なくとも 4,5冊はある」という回答で、質問者は納得してしまいます。

でもね・・「 2冊と 5冊って、実質的な意味の差があるの???」と思ったのは私だけじゃないでしょう。


STAP細胞の作製に 200回成功したという回答を聞いても、それって「 100発 100中なのか、それとも 1000回実験して 200回の成功なのか」ということも、

「そんだけの実験をしてノートが 5冊って少なすぎないか?」とも、「いったいその実験って一日に何回できるものなのよ?」とも、誰も聞きません。


中には質問によって真実を明らかにするのが使命の記者でありながら、突然「あんたね!」とかいって説教を始める人もいて、「いったいこの人達なに???」って感じだったのです。

正直、「こんな人たちに質問させても、なんもわからんでしょう?」というのが、私の印象でした。


また彼女に対する批判にも、あまりに非論理的なものも多く、「このタイミングであれば、彼女に対する批判はどれだけ非論理的な批判でも許される」とでも考えられているかのようでした。

ところが、そういう記者のお粗末な質問スキルや、非論理的な批判、メディアの異常な取材姿勢を批判すると、なぜか「お前は小保方氏を支持するのか?」と批判されるのです。


私は炎上や批判に慣れているからいいですが、こんなこと言われたら、普通の人は「ヤバイ! 彼女を批判しないと自分も批判される!」と感じてしまいます。

それは完全に子供の世界の“いじめ”と同じ。

「いじめに参加しないと、自分も虐められる」という世界。


気の弱い子供がそのプレッシャーに負けてしまうことは( 100歩譲って)仕方ないかもしれない。
でも、大人はそんな空気に負けたらダメです。
それが大人の大人たる所以でしょ?


★★★


このことで思い出したのは、民主党が政権をとって“仕分け”をやっていた時、蓮舫氏が科学技術予算に関して、「なぜ 1番でなくてはならないのか? 2番ではダメなのか?」という質問をしたことです。

この時も、彼女はものすごい批判を浴びました。無知だ! 無理解だ! これだから政治家はダメだ! とね。


でもみなさん、この時、問われた側の(科学技術予算を担当する)官僚が、この質問にどう答えたか、知ってますか?

誰も知らないでしょ?

その官僚の回答はほとんど報道されていません。なぜなら、この担当者は「まともな回答をできなかったから」です。


もしここで、その担当者が即座に、

「 2番というのは、2番を目指した人がなれるものじゃないんです。 1番を目指しているトップ 5人が、1番と 2番と 3番と 4番と 5番になるんです。だから 1番を目指さないと、トップクラスには残れません」とか、

「 1番の開発チームだけが、基本的な特許を押さえられるんです。2番手からは収入を得るどころか、1番の人にロイヤリティを払わなければならなくなります」とか、

「 1番になることの影響は極めて大きく、広範囲にわたります。ロケットや衛星やインフラ工事の売り込みにも影響するし、国レベル、大学レベルでの技術者の争奪戦にも影響します」など、

なんでもいいけど、蓮舫氏が「なるほど」って思う理由を即座に述べてれば、質疑はそこですんなり終わったんです。

そうすれば蓮舫氏が声を荒げ、何度も問い詰める事態にはならなかった。彼女は「なんで担当者がこんなことも答えられないの???」と問い詰めただけです。


そもそも蓮舫氏は素人だけど(素人だから質問してるのであって)質問が少々ズレてても、そこまで批判される必然性はありません。

しかし回答する側の官僚は、膨大な額の科学技術予算を配分する権限を持つ人です。それなのになぜ、ピシっとした回答ができていないのでしょう? 

そんな人が予算配分を担当してるコトのほうが、蓮舫氏の質問の拙さよりよほど深刻な問題では? 


んが、

批判は「みんなが批判してる人=蓮舫氏」に集中します。

テレビは彼女の金切り声だけを繰り返し切り取って報道し、ネットでも全体の会話を確認することもなく彼女への批判ツイートを

「気軽に!」そして「これは拡めなければ!」と盲信し、リツイートしたり“いいね”しまくる能天気な人が多数出現しました。


そんな中、彼女以外の人(この場合、まともな返事もできなかった担当者)を批判すると、「ちきりんは蓮舫を擁護している!」と後ろ指を指さされるのです。

「なぜお前は、みんなが批判している蓮舫氏を批判しないのか!?」と責められるというわけ。


★★★


これって学校のいじめと全く同じ構造ですよね。


1)最初に、自分なりの論理でいじめを始める子供 と
2)みんながいじめてるから、自分もいじめていい、と考える子供、がいるんです。
3)その後、自分がいじめられないよう傍観に回ったり、嫌々いじめに参加する子もでてきます。


この2)の人の罪はものすごく大きいです。

2)の人が現れなければ、多くの場合1)の人は“いじめ行為”を止め始めます。

でも2)の人がたくさん現れれば、1)の人は安心して“いじめ”をエスカレートさせます。


2)の人は次の2)の人を呼び込み、挙句の果てには3)の人に対してまで「お前も批判に(いじめに)参加しろ!」とプレッシャーを掛け始める。

なぜなら2)の人にとっては、できるだけ多くの人が2)のグループに参加することこそが、自分の行為の正当性を意味するから。

「みんなが叩いているということは、オレが叩いても問題ない!」=「みんなやってるからオレがやってても問題ない」というのが、彼らの唯一の拠り所だから。


しかも彼らには、自分が“いじめ”に参加しているという自覚がありません。

ものすごく多くの「いいね」や「リツイート」が付いている特定個人や特定イベントへの批判ツイートに、気軽に「いいね」や「リツイート」をすることが、どれくらい恐ろしいことか想像できてない。


そういうの、よくないんだよと指摘しても、
「オレはメモ代わりに“いいね”しただけ」 とか
「あたしのフォロワーなんて人数も少ないのでリツイートしてもなんの問題も無い」とか言う。

そういう人がたくさんいるから、いじめもネットリンチも成立してしまうってことに気づいてない。
そういうツイートばっかりしてるから、良識ある人につながりを拒否されてしまうのだとも気づかない。
あまりにも無自覚で、あまりにも無思考、そして残酷な人たち。


子供の世界のいじめだって「虐めたのはアタシじゃない。アタシは見てただけ」みたいに言う子がいるでしょ。自分がイジメの加担者なのだと気がつかない子。

100歩譲って子供なら仕方ないのかもしれない。でも、大人が「いいねしただけ」とか言ってるなんてお粗末すぎる。


私も含め誰にでも、なんらかのミスにより、もしくは魔が差して、批判の対象になることはあるでしょう。
自分なりの価値観や思想に基づき、1)の人になることもあるかもしれません。
でも心して、2)の人にだけはなりたくない。


誰も批判してないけど、これは言うべきだと思ったら、たとえひとりでも最初に批判の声を上げる人と、
すでに多くの人が=みんなが批判してる案件に「いいね」する人は、天と地ほどレベルが違う。



そんじゃーね。


http://d.hatena.ne.jp/Chikirin+personal/  http://d.hatena.ne.jp/Chikirin+shop/