解体の希求、結合の希求

高度経済成長期から現在に至る社会の変化のひとつに、伝統的な「共同体の解体」があります。

“村八分”という言葉もあるように、地域が生活全般の共同体であった時代には、コミュニティの構成員間の結びつきは今とは比べものにならないくらい強いものでした。

共同で行う季節ごとの農作業はもちろん、町内会、自治会や消防団、老人会、祭りや信仰のためのコミュニティ、学校関係の子供会、親の会(PTA)など、多種多様な共同体が存在していました。

以前はこういった“共同体への帰属”はすべての人にごく当然に求められ、参加しないという選択肢はありませんでした。しかし、経済成長、都市への人口移動、そして家族形態の多様化に伴い、これらの共同体は一貫して弱体化が進んでいます。

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その一方で現代の人達は、「自分の属するコミュニティ」を探したり、自ら形成するために多大な努力をしています。

ミクシーなどSNSは「コミュニティ結成の支援サービス」だし、自分が気に入った記事をソーシャルブックマークなどで他者に紹介するのも、趣味や意見を同じくする人を捜す行為です。

ブログや掲示板を使う人の中にも、「誰かとつながりたい!」光線を出している人はたくさんいて、うまくコミュニティに入っていけると“嬉しく感じ”、入っていけないと“俺は一人だ”と絶望したりします。


ネットの中だけではなく現実社会でも、会社や家族以外のコミュニティを積極的に作ろうとする人達が増えています。趣味を同じくする人の集まり、ボランティアグループ、勉強会などが数多く存在するし、シェアハウスで共同生活を送る若者も増えています。

会社にしても、社員同士のつながり形成に積極的な支援をする「熱い会社」が人気だったりします。給与をもらって時間を切り売りするのではなく、「カリスマ社長」がいて、その人に「ついていきますっ!」な仲間が集まれば、単なるサービス残業も「夢に向かって皆が一致団結している状態」だと思える……これってまさに「共同体幻想」ですよね。


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では、現代人が「逃げ出したい」と思った伝統的な共同体と、時間やお金を投資してまでも「手に入れたい」「入りたい」と思っている共同体は何が違うのでしょう?

消滅しつつある伝統的な共同体の多くは、個人に参加・不参加の決定権がありません。そこでは、家族は家族であるという理由で一緒にご飯を食べることを求められ、同じ会社の社員であるという理由で日曜日に運動会に呼び出され、ご近所であるという理由で日曜日の草むしりに参加しろと言われます。

一方、現代社会で求められているのは、「運動をしたい人だけが運動会に参加する」「草むしりのボランティアをしたい人だけがボランティアグループに入る」という、個人の参加意思を前提としたコミュニティです。

行為としてはたとえ同じこと(たとえば草むしり)をするのでも、「自分の時間をコミュニティのために犠牲にしているのではなく、自分の好きなことだからやっている」という前提が求められる。これが「敬遠されつつある共同体」と「求められている共同体」の違いです。


ところが、共同体を成功裏に運営し続けるには、一定量の「個人の犠牲」が必要という点では、昔の共同体も今のコミュニティも同じです。

どこでも、コミュニティの長(リーダー)は無報酬で相当の時間の投資を要請されるし、時にはくだらないもめ事に巻き込まれます。「共同体のために自分の時間を使い、嫌われる可能性も引き受ける」人がいないと、共同体は長期間にわたっては成り立ちえません。「楽しそうだから入りたい」「楽しくないから辞める」という人しかいないコミュニティは長続きせず、すぐに解体(自然消滅)してしまうのです。

だからといってそこに「個々のメンバーが果たすべき責任」とか強い「共同体のルール」を求めてしまうと、それを「うざい」と感じる人が増え、最初は盛り上がって成立したコミュニティも、昔のコミュニティ同様に崩壊してしまいます。


このため長く続くコミュニティの多くは、下記の2種類のいずれかの場合が多いように思われます。

(1)フリーライダー(ただ乗りする人)が混ざり込まない、ごく少数の間だけは成立するケース。(コミュニティの規模が大きくなると崩壊してしまう。)

(2)コミュニティの維持運営に相当の役割を担う「コミュニティリーダー」が仕事の大半を担ってくれる「個人主催コミュニティ」のケース。多くの場合、そうすることに商業的なメリットがある人がその役割を引き受ける。

本来は、すべての人が「テイクより少し多めにギブする」というのが共同体が成り立つ条件ですが、実際には多くの人が「ギブよりテイクの方が少しでも多いなら参加したい」と考えるため、多くのコミュニティの寿命はとても短いものになってしまうのです。

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強制的に入れられた共同体から離れて“個”を追求したいという気持ちは多くの人が感じるものです。それを私たちは「自由に生きたい」と言ったり「個の自立」、「集団の束縛から逃れる」などとポジティブにとらえてきました。

一方で、「つながりたい」「誰かにわかってほしい」「わかりあいたい」「仲間が欲しい」という強い欲求もまた消えることはありません。だから、解体された個人は必然として「新たな共同体」を探します。

人間が社会的な存在であり、結局のところ「共同体」なしには生きられないというのなら、昔の共同体を解体しなければよかったのではないか、とか、それらを再生すべきだ、などという議論もありますが、話はそんなに単純ではありません。

参加・脱退の自由が個人全員に認められ、かつ、コミュニティの維持に必要なエネルギーを確保しつづける、というふたつの条件を同時に充足することは、そんなに簡単なことでもないのです。



そんじゃーね


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