「親が裕福じゃないといい教育が受けられない。そして、そういう子じゃないと社会で成功できない」というのは、日本でもよく言われるし、世界でもありがちな話です。
ただ、それら「貧富の差による教育格差」が大きい国には、「非常に貧しい層に生まれてくる、ごくごく例外的な“タレント(才能)”だけは、見つけ出して浮上させる」という仕組みも見受けられます。
たとえばアメリカ。
教育費がバカ高く、貧困層に生まれれば大学進学のためには入隊するか、もしくは、働きながら”ユニバーシティ”ではなく(たいしたキャリアップにはならない)”コミュニティカレッジ”に進むしかない。
というのが一般的なルートだけれど、めちゃくちゃ優秀な子には返済不要な奨学金もちゃんと提供されてる。
だから貧困層に生まれても、才能さえあれば超一流大学に進学することは不可能ではありません。
しかしアメリカの大学や大学院の授業料はめっちゃ高い(一年で 400万円など)ので、奨学金やローンが得られても、それらを背負って進学する学生の経済的な負担はかなり重いです。
だから「経済停滞で就職が巧くいきませんでした」みたいになると、大借金を抱えてプー太朗という悲惨なことにもなります。
つまり “普通の才能の学生”にとっては、それなりに厳しい(いいような悪いような、なんとも言えない)仕組みなんだけど、ごく一部の“類い希なる才能に恵まれた学生”には、とても有り難い仕組みがあるんだよね。
親が貧乏でも、自分に才能さえあれば、勉強するお金は調達できる。
しかもそういう人材は少々の不況でも就職時には引く手あまたで、給与の高い金融やコンサルで何年か働いて借金を返してもいいし、自ら起業したり、急成長中のスタートアップで資産を形成することを目論んでもいい。
貧しい家に生まれ、厳しい環境で生きていても、ごく稀に天才的な化学者だったり、凄腕の起業家だったりという“きらきらスター”が現れる。
アメリカ社会は、そうした卓越した才能だけを貧困(ときには不法移民)コミュニティから引き上げて、“アメリカの成長の原動力”にしていくのです。
放っておくと、どこの国でも「親の財力が高い家」の子供しか、社会的に成功しにくくなります。
でもそれが進むと、その国には次世代のリーダーが現れにくくなります。
親が裕福であることは子供にとって有利だけれど、親が裕福な家だけに“次世代を担う才能”が誕生するわけじゃないからね。
いかに“恵まれない荒れ地に生まれた類い希なる才能”にも成長と成功の機会を与え、国を(産業を、社会を)率いてくれる原動力に育て上げるか、というのは、とっても大事なことなのよ。
中国にも同じような仕組みがあります。
ご存じのように中国では、都市部と農村部の経済格差は激烈です。
上海において正式な戸籍の元に生まれ、親が裕福な(もしくは特権階級の)家庭の場合と、地方の子だくさんの貧農の家に生まれる場合では、人生のスタートラインはあまりに大きく異なります。
しかしその一方で、彼らは“超のつく才能”に関しては、中国全土から見つけ出そうとします。
人口が15億人にものぼる国で統一の学力試験を実施し、すべての子供に序列をつけてしまう。
そのテストで優秀な成績を収めれば、貧しい農村からもいきなり地域トップ大学への入学が許される。
人生が大きく変わる瞬間です。
繰り返しますが、ここでは“そこそこ優秀”な子供の話をしているのではありません。“飛び抜けた才能をもっている子供”の話です。
そういう子供達は、頭脳であれ、卓球であれ、体操であれ、その才能をもって15億人の中からひっぱりだされ、いきなり「オリンピック強化チーム」に放り込まれたりするわけです。
実は日本にも、今より貧富の格差が大きな時代には同じような仕組みがありました。
そういう時代、都会ではお金持ち、地方でも地主の子供しか小学校から上の学校には行けなかった。
でも、たとえそういう時代でも、ものすごく貧しい家に、きら星のごとく驚くほどの才能を持った子供が生まれれば、実は、養子に出されたりとか、丁稚だとか、書生だとかを勧められるなど、いろんな形で血縁もない周囲の富裕層がその子に“機会”を与えていました。
「こいつは小作の 6男坊で終わらせたらアカン子や!」と誰もが認める才能であれば、引き上げてもらえるチャンスがあったのです。
経済格差のある国では、「親が裕福な子だけがよい教育を受けられ、社会で成功しやすくなる」傾向が、どこの国でも起こります。
その一方で、恵まれていない環境にいる“スゴイ才能”を見つける仕組み」も必要だと多くの人が感じてるんだよね。昔の日本も含め。
が、
「今の」日本には、そういう仕組みがありません。なぜなら「公教育が、全員に必要な教育を提供する」という“一億総中流時代の建前”があるからです。
奨学金や学生ローンも限定的だし、全国統一テストで子供に序列をつけるなんてとんでもないことだと考えられています。
一方で、他人の子供に教育費をだしてやるような余裕(経済格差)は、今や誰にもありません。
確かにこれまでの日本では公教育がしっかりしていたので、世界的にみれば“まだマシ”な方だったでしょう。
しかし、親の裕福さが子供の教育機会に一定以上の影響を与えるようになってきたら、国のリーダーや、産業のトップ、次世代を創るタレント(才能)は、親が裕福というセグメント以外からも積極的に見つけ出す仕組みが必要になるはずです。
私は、「親が裕福でないと、子供がいい教育を受けられない」ということも、もちろん問題だとは思っています。でもこの問題は少なくとも既に“認識”されています。
今日のエントリで私が言いたいのは、それではなく、いまだ認識されていない問題です。
どの分野であれ、めっちゃスゴイ才能だけは見つけ出し、親の資力に関わらず救い上げてチャンスを与える仕組みが、なにかしら必要だと思うのです。
“きら星スター”は、社会の(もしかしたら世界の)財産なのだから。