社会というのは長く続く中でそれぞれ固有の“前提”を作り上げる。
“規範”と呼んでもいい。
「こうあるべきだ」「こうなのだ」という社会共通のルール、思想、考え方、みたいなものをどの国も有している。
そしてそれらの規範を前提にして、社会の諸制度は設計される。
なんだけど、実際には社会にはいろんな人がいる。
多数派が作り上げた前提に合致しない少数派の人にとって、それらに基づいて作られた社会制度の中で暮らすのは楽なことじゃない。
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また、時代に応じてもともとは少数派だった人が多数派になることもある。
基本的には経済的に豊かになればなるほど、人の嗜好は多様になり、少数派の合計割合はどんどん大きくなるわけで、つまり「社会が前提とすべき考え方」は本来は少しずつ、けれど、確実に変化していく。
ところが「社会のあるべき論」やそれに基づいて設計された「社会制度」が変わるスピードは、現実が変わるスピードより圧倒的に遅い。
「社会のあるべき論」は長い間に一種の「道徳」と化し、簡単には変えられなくなっているし、時には宗教と密接に結びついたりもしているから。
それに、制度設計者は既存制度に基づいて選任されているわけだから、必然的に「古い側」の人達が多くなる。
こうして、「ずっと昔に作られた社会のあるべき論」に基づいて設計されたいろんな制度が、その前提とはもはや合わなくなった生活を始めている(既に少数派でさえない)多くの“現在を生きる人達”の生活に、多大な不便や苦痛を強いることになる。
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以下、具体例を「社会の前提」→「社会制度」という形で表記してみます。
「母親は外で働かず、家事と育児に専念する」→「保育園なんて増やす必要はない」
「夫は妻を働かせなくても十分な稼ぎが得られる」→「女性のための“働く環境の整備”は後回しでよい」
「家事は妻が担当する」→「男性は長時間労働が可能なはず」
「妻は仕事をもっていない。or 女のキャリアなんて大切ではない」→「男性はいつでも辞令で転居を伴う異動を受け入れる(ことを労働慣習とする)」
「妻は現金収入を持たない」→「妻の年金は夫の払った分でカバーする」
「長男夫婦は親と同居する」→「介護制度は在宅介護を基本として設計する」
「高齢者は子供と同居している」→「年金はお小遣い程度の額でよい。長男夫婦の家に住むので、家賃などを年金から払う必要はない」
「女性は結婚か出産で仕事をやめる」→「スキル蓄積の不要な補助職は女性に割り当てる」
「若夫婦は親と同居している」→「育児支援は不要。両親に助けてもらえばいい」
「若夫婦は親と同居しており、家の中に姑、舅、小姑の目がある」→「幼児虐待なんて起りえないので、早期発見や厳しい取り締り制度は不要」
「会社が潰れない限り転職しない」→「給与、退職金などすべてを“年齢テーブル”に紐付け、個別の会社内の制度として決めていく」
「日本は解雇規制が強いので失業率は低い」→「失業保険は最低限でよい」
「病気になっても家族や兄弟が助けてくれる」→「生活保護制度は拡充しなくていい」
「子供がいる夫婦は、離婚なんてしない」→「母子手当は最低限でよい」
「子供がいて、妻の方が死亡した場合は、男性はさっさと再婚する」→「父子手当という制度はなくてよい」
「高卒・中卒で働く人は、地元で地道に働ければ人生に満足する。また、つらくても簡単には辞めない」→「高卒、中卒の就職活動は高校による“割り当て受験制度”とする。自由応募を認める必要はない」
「すべての人が結婚するし、子供を持つ」→「少子化対策なんて不要」
「貧困に陥るのは努力をしていない人だけである」→「貧困対策なんて不要」
「日本は武器の規制をしているので、犯罪者も武器を持っていない」→「警官は原則として発砲してはいけない」
「女性の初産は 20歳前半。20代の間に 3人の子供を産むのが普通」→「お産のリスクは小さい。母子共に健康に生まれるのが当たり前。お産で死ぬのは医師のミスだから医師を訴えろ」
「子供も生めないような嫁は離縁されてもしかたない」→「不妊治療への支援など不要」
「国土の狭い日本における農業は競争力をもちえない。やり方が悪いのではなく、誰がやっても儲からない産業なのである」→「新規参入や市場化ではなく、補助金で支えるのがベストな方法」
「自ら“死”を選ぶことは、時に尊い行為である。戦国武将以来の日本の伝統である」→「圧倒的に自殺が多い国であることは恥ずかしいことではないので、自殺対策は不要」
「他人に助けを求めるのは甘えた考えである」→「生活保護の申請者は説教をして追い返すべき」
現実に合わない古い社会制度がいつまでも残るのは、社会制度の礎となってる「社会の前提」が変ってないからなんだよね。
「社会の前提」→「社会制度」となってるんだから、問題は制度というより、頑固に残る「社会の前提」のほうなのだ。