ずっと前に、ある高名な医師の方が退任記念講義をされた時の話を雑誌で読みました。
その方は集まった教え子達(大半はベテランの医師、研究者)に向かって、「これまでの自分の誤診率は約14%だった」と話されたのです。*1
会場からはどよめきが起こりました。その後、この話は外部にも伝わり一般の人達もまた、衝撃を受けました。
けれど最初の会場でのどよめきと、一般の人の衝撃は異なるものでした。
会場にいた医師達はその誤診率の“低さ”に驚いていたのに対し、一般の人達はその分野で一流といわれた高名な医師の誤診率の“高さ”に驚いたのです。
この話からは、両者が持っている前提が大きく異なっていることがわかります。今日は、医療分野の専門家と一般人のもつ前提の違いについて書いてみます。
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体が不調で病院に行き、様々な検査をしたのに原因がわからなかった時、「高い金を払って検査したのに無駄金を使った。藪医者だ」的な不満をもつ人がいます。
一般の人は往々にして「人間の体の仕組みは科学的に解明されている」もしくは「最先端医療技術をもってすれば病気の原因は必ずわかる」という前提を持っているのでしょう。
けれど残念ながら、実際にはまだ人間の体の仕組みなど解明にはほど遠い状態です。
医療行為の多くは対症療法(原因を治しているのではなく、症状を緩和させることが目的)だし、胃にガンができた時に外科手術で胃を摘出するのは、「胃がんが治った」のではく「治せないから切り取った」だけです。
多くの病気が未だ治せないのは医師のせいではなく、私たちの医学レベルの話なのです。
「わかってないことも多い」ということを前提とすれば、「検査をしたのに原因がわからなかった」としても、一概に無駄な検査とは言えません。
なぜなら検査によって、もともとの「○○という病気ではないか?、という仮説」は否定できたのです。
わからないことに関しては仮説検証を繰り返す、別の言葉で言えば「トライアンドエラーで正解を探していく」のがひとつの方法論です。
そういうプロセスにおいては仮説の証明だけではなく、仮説の否定も検査の重要な成果と言えます。
けれど中には「医者が仮説を検証するためにトライアンドエラーでいろんな検査をしていく」という概念自体、受け入れがたいと思う人もいるでしょう。
「オレの体はおもちゃじゃねーぞ」と思うのかもしれません。
けれど今のところは、一番ありそうな仮説(発生頻度の高い疾病ではないか?、症状から判断して最もありそうな疾病ではないか?)から順に疑って調べていくしか方法がないのであれば、
患者側にできることは「医者ができる限り早く正しい仮説にたどり着けるよう、症状や状況を詳細に、間違いなく、ビビッドに伝え、トライアンドエラーに貢献する」のが自分のためになると言えるのです。
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もうひとつ前提に違いがあると思われるのは、「生きているすべてのものは死ぬ可能性があるし、しかもそれは避けられない時がある」ということでしょう。
たとえば「出産は母子ともに健康であたりまえ」というのが、産む側の前提のように思えます。
しかし医療従事者側からすれば必ずしもそうではないでしょう。
特に初産が 20代前半であった昔と、30代後半での初産が珍しくない現代では、出産のリスクは大きく異なるはずです。
また手術といえば「簡単な手術」「難しい手術」などという区分をしがちですが、実際には、麻酔や“切る”という行為自体(出血自体)が、死亡原因になりうるリスクを含んでいます。
どんなに簡単と言われる手術でも“絶対安心”などということはありえないというのが医師側の前提だと思います。
患者側からすれば「簡単な手術だと言われていたのに、こんなことになるなんて医者のミス以外にあり得ない」となりがちですが、「リスクのない手術などない」のが現実です。
だからこそどんな手術でも、本人か家族がそのリスクを理解したという同意書が必要なのです。
また、「副作用のない治療方法など存在しない」ということも前提として理解すべきかもしれません。
放射線は細胞をぶちこわすし、体にメスを入れれば体全体の抵抗力や免疫力は大きく毀損されます。すべてのケミカル(化学的な薬品)は体の中に“不自然な作用”を残していくのです。
しかし一般人でそんな前提をおいている人はほとんどいません。だから薬を飲んでみて、本来の病気とは違う全然別の症状が現れるとびっくりします。
で、医者にそれを言うと「ああ、その薬はそーなるんです」と軽くいなされてしまい・・・この時点で初めて“お互いの前提の違い”に気づいたりします。
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もうひとつ「医者の目的と患者側の目的は必ずしも同じではない」ということも理解しておくべきことでしょう。
多くの場合、医師は「病気を治そう」とするけれど、患者側にとっては、必ずしもそれが第一優先順位にあるとは限りません。
反対に、医師が治療の効果はないと考えていても、患者側が“たとえ無駄であっても医療行為を続けてほしい”と願う場合もあるでしょう。
最近は、末期ガンで余命を宣告された人が入院ではなく家族とすごすことを選ぶというストーリーの映画が作られたり、妊娠中に病気が判明し、治療と出産のいずれを優先させるかをテーマにしたドキュメンタリーも作られました。
クオリティオブライフとか緩和ケア、さらには尊厳死や安楽死問題なども、治療の目的は何か、という問いの延長線上にある議論です。
治療に関する意思決定では、病気になった自分が“主役”です。
自分の人生や生活をどうしたいか、という点から考え始め、「どんな治療を受けたいか」という判断を“自分が”よりよく行うために、医療のプロである“医師のアドバイスを活用する”という思考が必要となります。
医師は「医学的に専門的なアドバイスをくれる人」であって、「治療判断における主権者は患者である自分」という関係をお互いが理解することが重要なのです。
というわけで、
(1)人体や生命の仕組みは、科学的に解明されていない、という前提
(対:最先端医療技術をもってすればわかるはずだ、治せるはずだ、という前提)
(2)すべての生き物は死を避けられない、という前提
(対:こんなことで死ぬわけないだろ!? という前提)
(3)医者の目的と患者の目的は必ずしも同一ではない、という前提
(対:目的は同じだから“お医者様”に任せておけばいいのだ、という前提)
にすれ違いがあると、医療側と患者側の信頼関係の構築や意思疎通に混乱が生じ、ベストな治療効果が得られないのではないかと思ったりしました。*2
なお、最後にふたつ。
私は医療に関しても完全な素人なので、いつものことながら今日のエントリも鵜呑みにされませんよう。
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私も身近な人が大病で入院したり、また亡くしたりという経験をしていますが、それらの時の経験から日本の医療体制を深く信頼しています。自分が深刻な病気になってもアメリカで治療を受けたいなどとは全く思わないです。
<関連エントリ>
・医療って何なのか、ちょっとは理解しておきましょう
*1:最初うろ覚えで12%ぐらいだっけ、と思っていたのですが、どうやら1963年に沖中重雄教授が最終講義で 14.3%と語られた、という話を読んだのだと、kamezoさんの調査をみてわかりましたので修正しました。多謝です。http://d.hatena.ne.jp/kamezo/20090604
*2:沖中先生について下記の情報も頂きました。ありがとうございます。