先日書いた、「新)4つの労働者階級」の図からは、様々な論点がピックアップできます。
論点1) (1)の人の国際競争力
日本の(1)は、数も少ないしグローバルに戦う力もまだまだです。語学力、多様な経験、ITスキル、リーダーシップ体験、イニシアティブなど、世界でリーダーになるために必須な要件が何一つなくても、日本では一流大学に入れるし。一流企業に入れてしまうからです。
強い(1)を生み出すには、“できる人”への税金による教育支援(留学を必須にするなど)や、エリート教育の復活も必要です。けれど平等神話に侵された日本では、危機感はあれど、これが優先的課題であるというコンセンサスは形成されないでしょう。
論点2) (2)的な専門知識の偏重
日本は(2)的な職業への尊敬度が大きすぎます。“専門家”を偏重しすぎ、多くの人が「広く浅く」より「狭く深く」のほうが価値があると思い込んでいます。この根底には、職人文化があるのかもしれません。よく言われる「息子は医者か弁護士に」という言葉も、日本人の専門家好きを表しています。
この感覚が、「多様な経験をつみながら育っていく」という複線的キャリアの価値を認めず、「ひとつの会社で、ひとつの仕事だけを突き詰めた人」を“より正しく好ましい人”と位置づける価値観にもつながっています。
日本で今一番足りないのは“総理大臣”や“経営者”ができる人であって、“技術だけは一流”の人でも“財務のプロ”でもありません。
専門知識への偏重度合いが強すぎて、「総理大臣って、どういう資質や適性が必要なポジションなのか」さえ話し合われることのない社会になってしまっているのが問題なのです。
論点3) (3)の人を(2)にするための教育方法の不備
「オレの背中を見て育て」とか、「自分達も20年は下積みをしたんだから、お前も20年下積みをしろ」など、非科学的(精神論的)すぎる育て方が、日本ではいまだに主流です。「効率的に学ぶ」ことが「苦労して学ぶ」より価値がないと思ってる人は、さっさと引退してほしいところです。
論点4) (1)や(2)から(4)へお金を再配分する仕組みの欠如
「経済全体が豊かになれば、底辺の人も次第に豊かになる」という考えを、ちきりんは信じていません。パイを大きくすることは大事だけれど、パイの大きさは、自然な配分を促したりはしないからです。「日本には巨大な貧困層が存在する」という意識を共有し、少なくとも、生まれた家の財力に関わらず、子供達が必要な教育が受けられるだけの支援をする必要があるでしょう。
論点5) 経済力以外の基準を用意すること(明示的にすること)
お金の再配分はある意味、簡単です。しかし「経済力がないから結婚できない」といわれても結婚の機会を強制的に再配分するのは不可能です。
個人が自分の存在意義を感じる源泉となる家族の存在や、没頭できる趣味の有無など、人生に意義を与えてくれるすべてが“経済力”という要素に依存しているのが、今の日本社会の根本的な問題です。
この辺は「不平等社会日本」で提案されていた解の方向性も参考になるでしょう。
論点6) 日本的な(4)の再生
その昔、日本の強さは(4)の人の優秀さにありました。“ラインの改善サークル”とか“アメーバ経営のセル”では、現場の人が自分で考えて提案し、柔軟に非定型な作業をこなしていたのです。
欧米では(4)の人にそんなことは期待しません。だから、(4)の人が何も考えなくても回る仕組みを作ることが、(1)の人に求められたのです。
日本企業も今は欧米型の「システムによって、何も考えない人たちを使うモデル」を採用しはじめています。でも本当にそれが優位性のあるモデルなのでしょうか、ちきりんはそれも疑問に思っています。
前線の人の強さを生かせなかった(1)の人の能力不足が、(4)の人を「なんも考えずに機械のように働け!」といわれる世界に押し込めているのではないかと感じるのです。
そんじゃーね。