非規範的環境

先日書いた「東京と地方の違いは、平均点の高低ではなく、ばらつき度合いの大小だ」という話の続きです。ばらつき度合いが大きいということは、多様なものが混在しているということです。そして多様なものが混在しているということは、「自由である」ことを意味します。

結婚しない女性を「売れ残り」と呼び、男性の場合なら「一人前ではない」と断じるのは、「結婚するのが普通であり、それ以外は普通ではない」という意識があるからです。でも、結婚する人、しない人が混在してくれば、どちらが普通でどちらが普通でない、という感覚はなくなります。多様性は自由度につながるのです。

性的な嗜好、職業の有無や選び方、お金や時間の使い方、家族の形態など、何をとっても、その地域にいる人の選択や性向が多様であればあるほど、個人の自由度は高くなります。生活スタイルのあらゆる面において圧倒的な自由度があること。これこそが大都市が人を引きつけ、膨張し続ける一番の理由でしょう。


自由度が高いということは別の言葉でいえば、「こうあらねばならない」という規範性が低いと言うことでもあります。画一的な人の多いエリアでは、「こういうプロファイルの人は、こうであるべきだ」というパターンが強固に残っています。学生は学生らしく、金持ちは金持ちらしく、男は男らしく、という感じです。

この規範性の高さが人の行動を縛ります。田舎の方が早く結婚すること、女性の喫煙率が低いことなどは、住んでいる人の性格によるものではなく、住んでいる地域の規範性の高さを反映しているのではないでしょうか。

また、規範によってプロファイルごとに生活スタイルが画一的なエリアでは、「高級スーツや高級車」と「ユニクロのTシャツ」は売れても、「ブランドもので2万円のTシャツ」はなかなか売れません。なぜなら「大金持ちなのに、Tシャツで働いている」という人がいないからです。良くも悪くも、人はパターン化されたスタイルで暮らしています。


一方、自由度の高い大都市では、そこに暮らす人は「自分であること」を問われます。上から与えられる規範がないため、「あなたは何者なのか?」と問われるのです。「私は大学生だからこんな感じ」、「サラリーマンだからこういう生活」という規範があれば、自由度はないけれど、選択する必要もありません。しかし自由度が高ければ、それぞれが自分で自分のスタイルを選ぶ必要がでてきます。

同時にそのスタイルを選んだ理由についても問われます。「なぜ働いているの?」「なぜ結婚するの?」というような、規範性の強い社会では、当たり前すぎてほとんど問われることのない質問さえ発せられることがあります。

こうしたことに、めんどくささや、とまどいを感じる人も沢山いるし、そもそも「自分でゼロから自由に選べと言われても困る」人もいます。周りが気になって自分の選択に自信がもてなくなったり、何かつらいことがあるたびに自分を責める人もでてきます。規範から押しつけられた生活であれば規範や社会に文句を言っていればいいですが、自分で選ぶと逃げ道がありません。それはそれでつらいことです。


また、「同じプロファイルの人は同じ生活スタイル」というパターンがないと、地域の半強制的なコミュニティが生まれません。30代〜40代の男性が全員で参加する祭りや消防団活動もないし、“近所の子供全員が通っている学校”のPTA、親の会もありません。

すると人は自分が所属するコミュニティを自分で探さざるをえなくなります。気に入ったコミュニティがなければ、自分で形成する必要があります。でも、そういうことが面倒な人も、不得意な人もいます。だから多くの人がお金を払って習い事をすることでコミュニティを見つけようとするし、時間的、経済的にそうする余裕がないと、“所属する場所”が会社以外に見つけられなくなります。

“都会は孤独”というワンパターンな言い方は、こういうところから来ているのではないでしょうか。同じプロファイルの人に同じ生活パターンや特定コミュニティへの帰属を求めてくる「おせっかいな他者」が存在しない場所では、人は簡単に孤立してしまいます。


というわけで、東京のような大都市での生活を楽しめるのは、

「圧倒的に自由度の高い非規範的な環境を楽しめる“確固たる自分”の持ち主」であり、
「個人でコミュニティを形成してしまえる程のバイタリティの持ち主」だということなのでしょう。


んじゃね。