すべての人は、いつか人生を諦めなければなりません。
なぜなら人は皆いつか死ぬからです。その時点では、誰もが人生を諦めることになります。
けれどその前に、「いつ、どのタイミングで、どんな理由で、人生のどの側面を諦めるか」ということは、人によって大きく異なります。
中には“死の間際まで諦めなかった”と言う人もいるでしょう。反対に、非常に早く多くのことを早めに諦めて生きている人もいます。
私は、日本は他の国より全体に「諦めるのが遅いのではないか?」と感じています。
そしてそれが不幸の元ではないかと思うのです。希有な才能をもつ人「以外」の大多数の人は、もっと早めにいろいろ諦めた方が、楽に生きられるのでは?
★★★
「階層」や「階級」のある社会では、小学生くらいの子供でも、異なる階層にいる人たちの生活をみて「自分にはああいう人生は決して手に入らない」と理解します。そしてその時点で一定の職業や生活については諦めるのです。
たとえばイギリスやフランスに生まれれば、小学校の終わりくらいで、「自分にはオックスブリッジやグランゼコールにいって、エリートキャリアを歩み、大企業の社長や政府高官になって高給を得るのは無理だ」とわかります。
韓国のように、同族財閥や富豪が多く存在する貧富の差が激しい国でも同じでしょう。
インドでも法律で禁止されているとはいえ、国内で生きる限りカーストは一生つきまとうでしょうし、中国だって同じ上海に生まれた子供でも、上海の戸籍があるかどうかで人生は大きく分かれてしまいます。
南米の子ども達が将来の夢としてよくサッカー選手を挙げるのは、それが唯一「階層や階級」がなくてもお金や地位・名声を得られる方法だと、子供ながらによく理解しているからです。
一方、日本だと、小学校や中学校のクラスで将来の夢を聞かれた時に、「この夢は○○君には可能だろうけど、ボクには無縁だな」と思う子供は多くありません。
社会人になる時も同じです。欧米だと入社した時点で「自分がこの会社で役員になることはありえない」と理解してる人もたくさんいます。
なぜなら、役員になるような人は全く違う経歴で、自分達とは違う入り口から入ってくるからです。
しかし日本では大卒で一斉就職した人の多くが、「自分も将来は部長くらいまでなれて、巧くいけば役員になる可能性だってある」と思っていそうです。
それを象徴するかのように、4月1日に入社式に望む新入社員は全く同じ条件で雇われており、あたかも横一線に並んでキャリアをスタートするかのように扱われます。
でも、ほんとうにすべての新入社員に、同じ可能性は与えられているのでしょうか?
「総ての人に同じだけのチャンスがある」などと誤解し、必死で働き続けることが「不幸の元」になってるんじゃないかと、私は思うのです。
だって・・・
諦めてないと、頑張るじゃん。
無駄なのに。
★★★
「あ〜、自分はあんまり勉強は得意じゃないな〜」と思ったら、勉強が必要なことは早めにあきらめた方がいいと思います。
塾だの家庭教師だのと大金を注ぎ込んでも、正直いってたぶん、あまり結果は変わらないんじゃないでしょうか。
「あ〜仕事巧くいかない、出世するのは無理かも」と思ったら、仕事はまったりやると決めればいいんです。
仕事にこだわるより、別の人生の楽しみ方を覚えた方が楽しく生きられるでしょう。
早めに「人生の天井」を知る。
そういうことを中学生くらいで知ることを不幸と思う人もいるのでしょうが、私は反対に「そういうことが 40才まで分からない人生より、中学生くらいで分かる人生のほうが幸せなのでは?」と思います。
いつまでもいつまでも「頑張ればやれる」などと思ったまま大人になるのは、本当に幸せなことなの?
仮に非常に早い段階で「自分にはなれない職業がある、手に入れられない生活がある」と理解したとしても、絶望する必要は全くありません。
寧ろそれは早めに「進むべき道が現実的に選べる」ということを意味します。
そもそも、中年になってから諦めるのはつらいです。
もっと遅く、老後を迎えてから「あれっ?みんなと同じように家を買って子供を大学まで行かせただけなのに、なんで自分だけ老後の蓄えが全然ないんだろう?」とか、
そんな時点まで他人様の天井と自分の天井に差があると知らないまま進むのは、危険すぎとさえ言えます。
それより、若い時にいろいろ諦めておいたら違う人生が開けてくるんじゃないでしょうか。
貧困国の子供をみて「くったくのない笑顔」と表現する人がいるけれど、自分が人生で得られるもの、得られないモノを早いうちに理解し、過大で過分な夢を持たないからこそ、くったくのない人生をすごせるのだとも言えるのです。