組織に所属する人は、「組織の目標達成にどれだけ貢献したか?」という視点で評価されます。
企業が売上 100億円という目標をたてれば、部門目標はそれにそって決められます。
営業部門は「組織全体で 100億円の売上を達成するため、去年より販売数を 2割アップ!」という目標をたて、
開発部門は「組織全体で 100億円の売上を達成するため、競合品と差別化でき、値崩れしない新商品をボーナス商戦までに開発する!」という目標をたてるわけです。
その後、目標はさらに分解され、個人目標が立てられます。
営業部門のA課長は「営業部全体で去年より 2割たくさん売るために、うちの課では○○社と○○社と○○社に○台ずつ納入するぞ!」みたいな目標をたてます。
このように、組織目標は→部門目標→個人目標と分解され、組織に所属する全員が自分の目標を達成すれば、部門目標が達成され、最終的には組織目標が達成されます。
組織における人事評価とは、こういった「組織目標のために各人に課せられたミッションを、その個人がどの程度、達成できたか」を評価するものです。
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この仕組みでは、組織は常に個人より優先されます。
個人は給与という対価を得て、組織目標に貢献することを求められ、「自分のやりたい仕事ができるか」、「スキルが身につくか」などは二の次です。
それがたまたま個人にとっても楽しい仕事であったり、結果としてスキルが身につくこともあるでしょうが、優先順位が逆転することはありません。
で、これが営利企業だとそれなりに納得できるのですが、国と国民という関係においてはどうでしょう?
素直に考えれば「国のために個人が頑張る」というのは本末転倒に思えます。
個人が幸せに暮らせるように国が支援するのが当然でしょ?と思えます。
しかし近代の日本では、大半の時期で「組織目標」、つまり「国の目標」が個人の目標より先に設定されています。
たとえば明治時代の「富国強兵」や「脱亜入欧」はまさに日本という「国の目標」でした。
そこでは、国が求める軍事や産業技術の導入・開発に成功した人や、国が進める西洋化に貢献した人が評価され、賞賛されます。
さらにもっとも極端だったのが、大政翼賛時代です。
当時、個人の生活のすべては「お国のため」と定義されました。
高度経済成長期に日本は「先進国の仲間入りをする」ことを目指しましたが、これも「国=組織の目標」です。
個人はその目標を達成するため、健康や趣味や家族との時間を大いに犠牲にして頑張ったのです。
例外としては池田勇人首相がぶちあげた「所得倍増計画」でしょうか。これだけは「個人の生活を豊かにする」ための、個人の目標だったと思えます。
ですが、高度成長後期以降にも頻繁に叫ばれた「技術立国日本」や「国際競争力のある国を目指そう」といった言葉も、「国の目標」ですよね。
その国の目標のために、個人が「英語力を高めよ」「海外経験を積んでたくましくなれ」などと言われるとしたら、それは国と国民の正しい関係でしょうか?
戦後政治をみる限り、国の目標より個人の目標が先に来ていた政治スローガンとして思いつくのは、さきほど挙げた「所得倍増計画」くらいです。
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では発想を変えて、先に個人の目標をたて、その実現を国が支援する、という方向で考えてみましょう。
個人の目標は人によって違います。
「世界で尊敬される起業家や研究者になりたい!」という人もいれば「のんびり暮らしたい」「毎日ゲームをしてすごしたい」という人もいるでしょう。
全体として、たとえば「世界のトップを目指したい人 10%、まじめに働き、安定した暮らしを望む人 60%、できるだけ働きたくない人 30%」というのが国民の希望だとすれば、
それをどう実現していくか、というのが国、もしくは時の政権に課される責務となります。
これが「個人目標が先、組織がそれを支援する」という考え方です。
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日本は明治以来ずっと「国民の豊かさ」ではなく「日本国の豊かさ、強さ」を目指してきた国です。
時には個人さえ、個人の幸せより所属組織の目標達成を望んできたケースもあったでしょう。
たとえばスポーツ選手で「チームはボロ負けしたけど、自分は大会MVPに選ばれた」場合より、「MVPはとれなかったけど、チームが優勝!」の方が嬉しいと感じる選手はたくさんいます。
同様に、自分は貧しくても日本が先進国になることを喜ぶ人、だって一定数はいたはずです。
では今は、私たちはどちらで目標をたてたいと考えているのでしょう?
今までのように「日本国」として目標を設定し、それを達成するためにみんなで頑張りたいのでしょうか。
それとも、個人の目標を先にたて、それを可能にしてくれる政権を選びたいのでしょうか?
組織目標が先か、個人目標が先か、そこが問題なのです。