先日、台風5号の影響で、一晩、新幹線&新幹線ホテルに閉じ込められ、新大阪から東京の自宅に戻るまで 16時間くらいかかりました。
夜の 8時頃に新大阪を出た新幹線は米原付近で停止し、夜中の 12時まで 4時間以上そこから動かず。
その間、お弁当を食べながらツイッターをしたり、日本語のアナウンスしか行われないため状況がわからない外人さんに説明をしてあげたり、本を読んだりしていたため、実はたいして退屈していませんでした。
ただ、日付が変わってから「新大阪まで戻ります」と言われた時にはさすがにガックシ!
「5時間も待って、振り出しにもどるわけ?」って感じです。
とはいえ他に選択肢はなく、新大阪へ。
そこでは「朝の 5時までこの車両で寝ていいです」というありがたい(?)アナウンスが。 仕方なく 3時間ほど仮眠を取りました。
★★★
朝の 5時に新幹線ホテルを追い出され、はてどうしよう?と。
正攻法の対応策は 1時間待って、6時始発の新幹線で東京に向かうことです。
でも、なんとなく気が進みませんでした。
既に最初の新幹線で 5時間、新幹線ホテルで 4時間も閉じ込められ、さらにまだ 1時間待って、この後、3時間、再び新幹線に乗るなんて気が狂いそうだと感じたのです。
で、駅をウロウロしてみると、新幹線の始発は 6時だけど、在来線の始発は既に動いていることに気がつきました。
突発的に「在来線に乗ろう!」と思い立った私、よく考えもせず京都行きの普通電車に乗ってしまったのです。
朝の 5時に大阪から京都に向かう普通電車、その女性専用車両に乗ってるなんてキャバクラあけのお姉さんばっかりかしら?と思ったけど、そうでもなく。
普通電車の駅をひとつずつ確認しながら、窓からぼーっと外を見ていたら、途中、サントリーが死守している山崎の駅(「山崎って何?」という方はこちらのエントリをどうぞ→「めちゃ旨、サントリー山崎のしゅわしゅわお水」)にも止まったりして、「おー、山崎ってここなんだー!」と感激しながら京都へ。
終点の京都に着いたのが 45分後。この時点で始発の新幹線はまだ新大阪を出ていません。
「もうちょっと普通電車に乗りたいな。どれに乗ればいいんだろ?」とウロウロしてたら、長浜行きの普通電車を発見。「長浜ってどこだったっけ?」と思いつつ乗車。
あの辺って、東海道本線っていう表示がないんですよね。琵琶湖線とか、いろんな名前が付いててよくわからない。
でも新幹線の駅でもある米原に止まると書いてあったので、「たぶん大丈夫」と判断して乗車。
この路線も素敵でした。
途中の駅名がなんだかんだ聞いたことある感じ。
「膳所? おーここが“ぜぜ”? あたしの元上司の高校のあったとこだー!」とか、「栗東? それってダビスタで馬を育てる場があったとこでは?」とかね。
あと、近江八幡とか安土あたりの田園風景の美しいこと、美しいこと。
田植えが終わったばかりの田んぼがキラキラ光り、伝統家屋の家が建ち並んでいます。
これはそのうち夏に遊びにこよう!
ほんとにキレイ。早朝だし寝不足で頭がぼーっとしてるし、なんだか夢のような光景でした。
★★★
そんなこんなで米原についた時には朝の 7時くらいになっていて、ここで新幹線に乗換えるか、まだもうちょっと、たとえば名古屋まで普通電車で行ってみるか、ちょっと悩みました。
本当は名古屋まで(下手すると、東京まで)普通電車で行ってもいいかな?
混乱ラバーなんだからネタ的におもしろいんじゃないの?
とも思ったのですけど、実はこの翌日、200名の方の前で講演する予定がありました。
それで、「疲れて熱とか出たら皆にめちゃ迷惑」だと思い直し、米原からひかり号(のぞみは米原には止まらない・・)に乗って東京に戻ってきたというわけです。
★★★
なんでこんな話を長々と書いているというかと、普通電車にのって“ワクワクらんらん”で車窓からの景色を見てる時、あたしはずっと「ああ、これが身体的体験ってやつだよね」と感じていたからです。
その直前、新幹線に閉じ込められている間に読んだ本には、孫正義氏というデジタル時代の旗手が「極めて泥臭い身体的体験から生まれてきた」と書いてありました。
たしかにその“身体的体験”は強烈で、それが頭から離れてなかったのです。
そして新大阪から米原まで寝不足のまま始発の普通電車に乗りながら、いつもの新幹線移動との大きな違いを再認識し、これがまさに「身体的な体験だ」と理解したわけです。
東京駅で新幹線に乗ると、2時間40分で新大阪に着くんです。
これ、大半の人はトイレにも行かず、その間一度も席を立たないような時間です。
窓も開かないし、風も入らない。停車駅も数個しかないから、文字通り、2時間半カプセルの中に座ってると大阪に着く、という印象です。
何度も乗っている私には、これだと 550キロという距離を移動しているという実感がもはや全く持てません。
頭では「私は 550キロ移動した」と理解してるけど、身体的には 550キロの移動は体験できないのです。
極端なことを言えば、あれって既に「ちょっと時間の掛かる“どこでもドア”での移動」です。
2時間半という物理的な時間はあるけれど、「移動」という身体的な実感は欠落してしまってる。
今回、ごく僅かな距離だけど普通電車に乗ってみて、「確かにあたしは移動してる」と感じられました。
頭だけでなく、体が「移動」を感じることができるのです。
もちろん、歩いたり、自転車で移動すれば、もっと強烈な「身体的体験」が得られるに違いありません。
★★★
この「身体的な体験」は、移動だけでなく、生活のあらゆる面で、その有無が分かれています。
ごく普通の家庭に育った人は、23才まで「お金を稼ぐ」ということに身体的な体験がありません。
せいぜい 18才からバイトをして、少しそれを身につけるくらいです。
ソフトバンクの孫正義氏は中学生の頃から、いえ、そのもっと前から、豚の餌を集めるおばあさんの荷車に乗せられて、「お金を稼ぐ」ことの身体的な体験を得ています。
これが、彼が「金を稼ぐ」ことに大成功している大きな理由だと思えるんです。
料理なども同じです。
店の厨房から運ばれてくる食事、母親が食卓に用意してくれる食事だけを食べていたら、「食べ物を用意する」ということにたいする身体的な体験が得られません。
「食物を育てる」ということに至っては、もはや大半の現代人(日本人)は、その身体的な意味を理解できません。
家族を持つとか、働くとか、食べるとか、移動するとか、すべてにおいて、私たちの人格を大きく左右するのは、「身体的な体験」であって、「頭で覚えたこと」ではないのです。
極端なことを言えば、「生きること」の身体的な体験をもたずに大きくなると、生きることの実感さえもてない人生になってしまうのかもしれません。
普通電車に乗っていてそのことに気がつき、これっておもしろいなと感じました。
人格や人生を規定するのは、小さい頃から「何を学んで来たか」ではなく、「どんな身体的な体験をしてきたか?」だと思えたからです。
私が今回『世界を歩いて考えよう!』を出版し、その発売告知エントリで、「旅することは生きること」と言えるくらい大事なことであり、旅のない人生なんて考えられない。それくらいたくさんのモノを私は、これまで「世界を歩くこと」から得てきたと思っています。と述べたのも同じことです。
物理的に地球のあちこちを歩いた実際の体験からこそ、私という人間ができあがっています。
そこから得たものは、私の人格形成に与えた影響という点において、本やテレビや学校から得た知識とは根本的に異なります。
これからデジタル時代になれば、身体的体験はさらに得にくくなるのか?というと、それもまた違うでしょう。
なぜなら「起きている時間の大半、画面に向かって過ごす」というのは、立派な「身体的な体験」だからです。
そこからは、「個人のスクリーンを持たない」生活をしてきた世代とは、全く異なる人格が形成されるはず。
自分はどんな身体的な体験を得てきたのか?
これからどんな、身体的な体験を得ていきたいのか?
子供に体験させたい身体的な経験とはどんなものなのか?
(頭で学ばせたいことではなくてね)
そういうことに意識的になるのも、おもしろいよねと思えた新幹線の遅延経験なのでありました。