左の思想がなくなって・・・

先日テレビを見ていたら、学者の人だと思うんだけど、「現代思想史を一言で総括すれば、左がどんどん無くなっていく過程ということなんです。」とおっしゃっていました。

複雑な流れをスパッと一言で簡潔に言い表すってインパクトあります。その通り!と思わず膝をうっていたちきりんでありました。

それにしても何故に左の思想は消えていったのか?

最左翼たるソビエト共産主義の崩壊というのはもちろん大きいですよね。

日本では、共産党も旧社会党も、結局は海外の権威の傘を借りていただけ、ということですから、本家のソビエトは崩壊、中国は事実上、日本より資本主義的となると、依って立つものがなくなった。

それだけで潰れていく理由となりえる=そもそも自律的な思想ではなかった、ということでしょう。

新左翼的なものはどうであったか。運動論としては彼らも全く本質のない、礎のないものであったということでしょう。仲間殺しとかぶっ飛びすぎです。AUMと同じよね。


ただ、“運動”に関してはいろいろな問題が生じて消えていくのはわかるとしても、「思想としての左」というのが無くなっていく、というのはどういうことなのか、これは結構考えてしまう現象です。

★★★

まずその前に、ちきりんはそもそも「思想としての左ってなんなんだ?」ってこともわかってないです。とりあえずちきりんの理解としては、

  • 右=民族主義
  • 左=社会共同体主義


という感じ。つまり、寄って立つところが、民族なのか(天皇陛下万歳!米国に服従するな。日本人は選ばれた民である!)、社会共同体なのか(我々は皆仲間であり、社会の成果を社会の構成員全体で分け合うべきである!)ということ。


もう少し一般化すると、こう定義すればいいのかな。

  • 右=自分の集団の優位性を支持
  • 左=自分の集団の境界線を引かない主義。それを超えた“社会”という概念を支持。

こうすると、環境問題とかを左の人が熱心なのはよくわかります。もっと言えば、左とは、「エゴを否定しようとする試み」とも言えるのかもしれません。

するとわかりやすい。左が消えていく流れ、とは、「やっぱり人間てのは“エゴ”に頑張る動機がある」わけで、「他者より恵まれた(優れた?)私達」という発想の方が、エゴ否定の思想よりパワフルであった、ということかと。

自己と他者、自分が所属する集団とその外にいる人たちの間に、境界線を作り、優劣を競おうとする、というのは、動物的本能なのかもしれない。そうだとすると、左の思想は消えるべくして消えていった、ということになります。

昔、左が強かった時代は、あまりにも少数の人間が富と権威を独占し、非常に狭い範囲で“自分たちの集団”を形成し境界線を引いていた。その外に置かれた人たちの方が圧倒的に多くて、だから、“おい、境界線なんて引くな”運動があったのかもしれません。

それぞれに豊かになり、それぞれに境界線を引いても、まあ、そんなに目くじらたてるほどではなくなった。もしくは、みんなそれぞれに境界線を引いて守りたいものが持てるようになった。その辺が関係しているということでしょうか。

昔の学生運動とか、本気で(共産主義)革命が起こると思っていた人たちの時代。その人達が現代の世の中に生き、ノスタルジーを感じるのと同様に、ちきりんも本でしかしらない“あの時代”に関心があります。

でも、左の思想がここまでのレベルで打ちのめされていることを思うとき、やっぱりそこには、何か根元的な理由があると思います。私たち人間という動物の自然の摂理にそぐわない思想だったからこそ、必然的に消えていったのだと。


ではまた明日


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