絶対量だと選択が大事

「一生の内に得られる○○の絶対量は一定である」「否、違う」というのが、どっちか、とよく友人と議論します。○○には、いろんなものを入れる。「幸運」とか「愛」とか「知識」とか。

たとえば、「一生の間に得られる幸運の絶対量は一定である」と信じれば、子供の頃恵まれていたら、後から何か悪いことが起こるとか、ってことです。「否、違う」という考え方だと、幸運の絶対量が人によって異なるのだから、もともと「幸運な人」と「不幸な人」というのが存在することになる。

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「知識」というのをこれに当てはめて考えた場合、ちきりんは「絶対量は一定だ」と思ってる。たとえば20才、30才、40才などの一定の年齢で比べれば、同じ年齢の人は「同量の知識を得てきている」と思う。しかし「感覚的」には「やたらモノをよく知っている人」と「なんも知らん人」というのがいますよね。これはどーゆーことか。あたかも「知識の絶対量が違う」、さらに言えば「努力すれば(他人より、もしくは、努力しないより)多くのことを学ぶことができる」というように見える。んでも、それは錯覚&誤解だと、ちきりんは思う。


たとえば、同じ年齢なのにやたらと「博識」に見える人と、全くの「無知」に見える人がいたとしても、それは、以下の理由によるものだろう。


(1)博識な人と無知な人が「知っていることの分野」が非常に異なる。「無知」と思われる人が「知っている」分野の事象について、この判断者は、自分自身が関心がない。一方で博識な人が知っている分野について、この判断者は「自分もああいうことを知っていたい」という願望がある。そのため、その知識を(他の分野の知識より)過大に評価している。で、この判断者は一方を「博識」と呼び、他方を「無知」と呼称する。


(2)「博識」な人は、「表現力」と「表現意欲」を保有しているに過ぎない、という考え方もある。「無知」な人は「知識の量は博識な人と同じ」だが、それを他人に共有したい、見せびらかせたい、聞いて欲しいという表現意欲を全く持っていない、とか、そうしようとしても表現力不足で伝わってない、という場合もある。これらは、その人が保有する知識量とは何の関係もない、別の能力や意欲、もしくは、性格の問題にすぎない。


などね。

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まあ、話は長くなりましたが、ちきりん的には「単位時間あたり、得られる知識量は一定」だと思うわけです。なんでそー思うかと言われたら、実際の話、「完全に無知」なんて人に会ったことないもん。知っている分野が自分とは全然違う人(で、だから話が合わない人)ってのはたくさん会いました。

反対に“何食べてるの?”って聞きたくなるほど「すごい博識な人」にも会ったことないです。何かについて異常に詳しい人はいるけど、その分、他のことを「えっ?」っていうくらい知らなかったりする、そーゆー人は。


で、そーするとね、「“どの”知識を得るために自分の人生の時間を使うか」という「選択」が重要になる。だって、「何かを知る」という場合、この世の中には知るべき対象が「無限」にあります。だから、どんな人も「90才で死ぬときに、世の中のすべてを知っていた」というようにはなれない。不可能です。ということは、自分の人生において、何は知らなくてもいいけど、これだけは知っておきたいというような、知識の分野の選択が行われるってことなんです。意識してか無意識にかは別として。


これ「一生に得られる知識の絶対量が一定ではない」と考えれば「努力してより多くのことを知りたい」とか、怖いモノ知らずの性格なら「オレはすべてを知るのだ!!」みたいなことになる。つまり、大事なのは「学ぶ努力」です。でも、ちきりんは「絶対量は一定」派だから、大事なのは「努力」ではなく「選択」だと思ってる。

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なんでこんな話をしているか、っていうと・・・この前、「戦後の日ソ外交関係」について、非常にわかりやすく教えて頂く機会があり、ちきりん、この分野のことを全く知らなかったので、目鱗の話も多く、とても興味深く、「知る喜び」を味わえたわけです。(たぶん専門家にとってはごく当たり前のことだと思います。ちきりんは本当、この分野について無知だったので、基本知識だけでも、すごくおもしろかったです!)

なんだけどね



こういうことをひとつ知った、ということは、人生において、何かひとつ「知らないままになってしまうこと」が決定した、ということだと思うんですよ。絶対量一定派的視点で言えば。それがどーもね、「あ〜、これでよかったんだろうか?」って思えて。


20才くらいまではね、新たに知ることというのは「生きていくのに必要なこと」が多いでしょ。他人とのコミニケーションの方法とか、まさにそうです。だけど、その後はもう「新たに知ること」なんて、別に「なんでもいい」んですよ。つまり「趣味の知識」なんです。だから、若いときは「無意識に」「とりあえず学ぶ」でもいいと思うけど、それ以降になると「私は、自分の人生において、何を知りたいか、何を体験したいか」というチョイスが重要になる。つまり、「知る」ということも一種の「趣味」なんだから、私はなんでもいいんです、ラジコンでもお酒でも車でも、ってことはないだろう、と。

この「趣味活動」=生きていくために不可欠ではない活動、を「行動」と「脳動」にわけて考えると、行動においては、人は極めてクリアな「意識」をもって「選択」をしているでしょ。お酒キライなのに飲みに行ったりしないし、興味のないものに多大な時間やお金は投資しない。ところが脳動、知識の取得という点では、この意識レベルが非常に低い。無意識とまでは言わないけど。そして選択もとても甘い。受動的だ。

ちきりんは日ソ外交史は、「おもしろかった」けど、「どうしても知りたいこと」でもなかった。なぜなにボックスに入っている問題でもなかった。とてもおもしろかったけど、「これでよかったのか?」という気がする。


まあ、そんな感じ。



伝わってますかね?伝わってない気がする。最近、文章、難しい。


なんかの成り行きで、レストランでステーキ食べるでしょ。美味しかったけど、人生でできる食事回数は決まってるわけ。ああやっぱりステーキではなく讃岐うどんにしとけばよかった、とか。そーゆー感じ。・・・・ますます訳わかんないね。もうやめます。


そんではね。