ボツ・エントリ

ちきりんのブログには「ボツ・エントリ」が存在する。

途中まで書いて、「うーん、いまいちな文章やね」と思うとアップロードせずにやめちゃったり書き直したり、で、日の目を見ずに埋もれていく文章がごくたまにだが、ある。


それを「弔う意味で」一回載せてみる。

下記は4日前のエントリのボツ・エントリだす。

★★★

タイトル「怨嗟の町が選ばれる」


ここ10年くらいの無差別殺人事件。殺す相手は誰でもよいと凶器を振り回す犯罪者。彼らが選ぶ街は、あまりにも特徴的だ。

地方では駅に車で突入して包丁を振り回すというケースが多い。東京だと新宿西口、池袋、そして秋葉原である。

この場所を見ていると、すごくよくわかる。彼らが凶器を振り上げている相手はいったい誰なのか。彼らは「誰をこの世から抹殺したいと考えたのか。」

★★★

今回、加藤智大が凶器を振り下ろした相手が工場長でも工場の正社員でもなかったことは、そのことを雄弁に語っている。彼は自分の周りにいる人など、全くうらやましいとも憎いとも思わなかったであろう。そんな人々など、彼にとっては“存在していないも同然”だったのではとさえ思える。

自分と違わぬ仕事をしながら安定雇用を謳歌する正社員たる同僚達も、その上で管理職として高給をもらっているであろう工場長も、全部“自分と同じ側のかわいそうな奴ら”にすぎない。おそらく彼はそんなものに憧れたことは一度もない。その意味で、今回の犯行の根源に“貧しい東北地方から工場へ派遣され虐げられた社員の恨みである”などという指摘はあまりにも的外れであるとちきりんは思っている。

正社員だの、安定した職業だのへの恨みややっかみ、憧憬や焦燥は、むしろ今回の事件の根底にそういうものがあると主張する人の心の中の方に存在しているにすぎない。

★★★

彼が憧憬し、必死で手に入れたいと考え、決して手に入らないのだと絶望したのは、「休日の秋葉原で無目的に浮遊する“悩まない魂”である人間達」だ。工場でまじめに働く、油まみれの人生を安定と呼ぶ人たちでは決してない。そうではなく、休日のホコ天で「人生を楽しめている人達」を、「一片の悩みさえないかのように浮遊できる人達」「その精神」を彼は嫉妬し、恨み、復讐したいととらえたと思う。


彼がずっと求めてきたものはそれなのだ。安逸を受け入れる精神、苦悩と無縁に見える人生。実際にはこの世に存在さえしていない、「苦悩することのない精神」を彼は、「俺には決して得られないものを皆は手に入れている。」と誤った。

実際には、そんなものを手に入れている人はこの世に誰もいないのに。

★★★

過去の無差別殺人事件を見ていると、ちきりんはいつも思うのだ。“犯人は、ここに幸せがあると思ったのね”と。

大阪の付属校で凶行に及んだ犯人は、エリートが集まると言われる地域屈指の付属校に“幸せが保証された人生”があると思ったのだろう。池袋や秋葉原でナイフを振り回す犯罪者は、繁華街の無秩序な群衆に「悩みのない人生」を感じた。

そして今回の犯人は、休日の歩行者天国の秋葉原に、友人と恋人と楽しむ「楽しい人生」がある、と思ったのだ。



「自分には決して手に入らない生活」があると思った場所が、犯行の場所として選ばれる。


そんな気がするわけ。



★★★

下関や山口で駅がターゲットにされることはそう考えると極めてわかりやすい。そういった地方を知る人ならわかるだろう。地方では駅前以外に「幸せな人たちが無目的に浮遊する場所」は存在しない。

駅は唯一の「羨むべき場所」なのだ。


★★★

別の例を出そう。


六本木ヒルズやミッドタウンや新丸ビルで暴れようと、過去の殺人者達は一度でも考えただろうか?


そんなことを彼らは思いつきもしなかっただろう。



この事件を、社会階層や経済格差問題と結びつける論調は、根本的に間違っていると思う。彼らが憧れたのは経済的な裕福さではなく、精神の安逸さなのだから。


以上

★★★

という文章を書いて、アップする直前に、あまりに保守的で退屈なのと、“説明的”でうっとーしー文章だなあと。


んで、書き直してみたわけ。

その前日から食べたものと、この件の感想を唐突に交互に配置してみようと思った。若干実験的だとは感じたが、そーゆー方法によってちきりんの伝えたいと感じていた「距離感」が表現できるかもと思った。


「あたしはこの事件が、格差とか派遣問題とか、んなもんとは全く関係ないと思っているよ」という“主張”ではなく“感覚”を、“説明的”にではなく“直感的”に伝えられる気がしたからだ。



というわけで採用された文章はこちら
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080611



「書く」というのはなかなかに奥深い。


そんじゃーね!